コミュニケーションについて

 最近、コミュニケーションについて考える機会を頂きました。あるコミュニケーションの研修に向けて資料作成のお手伝いをさせていただいたのですが、いざ作成する段になって、私たちが日常行っているコミュニケーションというものがいかに多岐にわたり奥深いものであるかということを改めて感じ、なかなか筆がすすみませんでした。

 コミュニケーションのもともとの語源はラテン語のcommunicare(共有すること)で、熱の伝導やウイルス感染をも意味する広い概念をもち、生物間はもとより物体間においても何かを伝えて、共有する・同じになるといった意味があるそうです。社会科学の領域においては、コミュニケーションという言葉は社会全般における対人行動全般に対してほぼ同義語として使われていますが、コミュニケーションをどう扱うかということに関しては、メディアや通信手段の発達や社会の発展に伴ったライフスタイルや価値観、嗜好の多様化から実に多様なアプローチがなされるようになり、一般常識的なマナーから顧客満足、接遇、異文化交流、地域交流、風習、近年では家族団欒、親子間のあり方まで問題提起されるようになってきました。

 このようにコミュニケーションについて各方面で、典型的な例でいえば、心理学や民族学といったような学術的理論からカウンセラーが駆使するような声のトーンや傾聴といったテクニックに至るまで研究されつづけているのは、その法則性の多くが最終的には個人に還元されることからも伺えるように、つまるところ根幹には個人の主義主張、心、ましてや表現のしようもない精神世界といった側面を分かちがたく、もつ難しさがあるからかもしれません。

 日本の精神文化には、禅から発した「一期一会」、「一挨一拶」、「知足安分」という教えがあります。営業や接客をしている方ならば、いずれかは一度は聞いたり、意識したことがあるのではないでしょうか?どの教えも真心を込めることを重視し、相手に対する思いやり、気遣い、謙虚な姿勢の大切さが説かれていますが、根幹には今、現在の自分が置かれている状況そのもの、感じていることそのものが、ありのままの自分であるという厳しい考えを持っています。とかく現代人には智に聡く合理主義、能力主義、功利主義に目が向いてしまいがちで近年、加速度的にその傾向がますます強くなってきているきらいがあるようです。

 かく言う私もその一人なのですが、過剰に損得勘定や勝敗、個人主義を持ち込みすぎてはいないでしょうか?ひたすら効率や簡素化のために、きめ細やかさを失ってはいないでしょうか?あまりにも殺伐としてしまい、今ではコミュニケーションの多くに形骸的な意味しか見出せなくなってしまったようにも思えてなりません。コミュニケーションのあり様は、今後も社会の進展に合わせ多様化していくのでしょう。時には私達の価値観やライフスタイルへも変化を与えることもあるかもしれません。そんな中にあっても、本来の人間の姿、基本姿勢は失わないように私は自省の念をこめて心がけたいものです。


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