第24回 (2004年4月)
新聞紙上でも言われているように景気が上向いていることが実感できるようになってきました。先日、農業マネジメント研修を修了されたいちご屋さんに行ったところ、今まではいちご狩りに来たお客さんがおみやげを求めることがほとんどなかったのですが、近頃は帰りにおみやげを買っていくようになった、景気に明るさが出てきたのでは、とおっしゃっていました。皆様の腕の見せ所と言えるのではないかと思います。
さて、今回は、ヴィクトール・E・フランクル著の「夜と霧」を読んだ感想について記述したいと思います。ヴィクトール・E・フランクルは、強制収容所を体験した精神科医(心理学者)です。強制収容所において繰り広げられた人生ドラマをのちに心理学者として解釈をして、著されたのが「夜と霧」です。通常は体験できない、生死の狭間で自身や他の収容された方々がどのような行動を取り、何を考えていたか等が書かれています。つまり、強制的に丸裸にされた人間像とも言えるのではないかと思います。過酷な労働、体罰や最低限の食事など肉体的にとことん痛みつけられても、精神だけは自由であったと非常に感銘を受けました。特に、「生きる意味を問う」では、割合自由な生活をしている現代の日本人では気づかないことがありましたので、原文を紹介したいと思います。
「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが私たちから何を期待しているかが問題なのだ、ということを学び・・・・、生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞をろうすることによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることに他ならない。」
上記のように強制収容所の中の生活では、生きる意味を何も得ることはできず、今の試練に答えていくことが求められたと思います。その中では、生きながらえることが唯一の価値観だったと感じられます。
今、私たちが生きている現代では、逆にあまりにも複雑で、何を求めることが正しいのか、生きる方向が見出しにくい時代になっています。生きている意味を問える時間や他人と比較する機会も多く、惑わされることが日常的だと思います。ただ、フランクルが記述しているように、現状をひたすら生きていくと見えてくる物があるのではないかと感じられます。見えてくる風景は今までと違った爽快さを伴うようなものだと思います。その風景を見てもいないのに自分を卑下したり、他人を非難したりしているものです。まずは、自分の求めていることを貫いて頂きたいと思います。後で振り返ると何も無駄はないことに気づきますし、その意味が分かることもしばしばです。「夜と霧」は、とても意味深い良書ですので、一度お読みになることをお奨め致します。
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